五感と解釈
五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)に何らかの解釈を付与する活動はありふれたものです。
それらの解釈は、大きく分けると主観的なものと客観的なものがあります。
・主観的なもの
感情、感想、倫理観、真善美観、宗教、等
・客観的なもの
生活の知恵、自然史、経験科学、等
主観的な解釈が五感と連絡を取ろうとする場合、その多くは五感を解釈に服従させようとします。つまり、解釈の世界で都合がいいものを五感に求めようとします。端的に言えば、「欲しいものを求める」ということになります。
一方、客観的な解釈が五感と連絡を取ろうとする場合、その多くは解釈を五感に服従させようとします。つまり、五感の世界を上手く説明できるように解釈を変更しようとします。端的に言えば、「起こったことをただ説明する」ということになります。
いずれにせよ、何らかの意味での五感と解釈の一致を求めようとしているわけですが、五感と解釈はそもそも別のものなので、両者が一致するときもあればそうでないときもあります。
なので、五感と解釈の一致を目指す活動は遊びと捉え、あまりこれに固執しないほうがいいかなと個人的には思います。
意識についての考察
意識について思うことをまとめました。
1.意識はある
意識はあります。意識が無いとは思えません。
2.意識はどこにあるのかわからない
意識はどこにあるのかわかりません。脳科学や西洋式の心理学等では意識が脳にあると説明していると思いますが、それは脳が損傷を受けたときに精神に異変をきたすことを根拠にして意識が脳にあると言っているのだと思います。ですが、それだけでは意識が脳にあるとは言えないと思います。
例え話として、パソコンとサーバーの関係を考えてみます。手元のパソコンからある情報をサーバーに送り、送られてきた情報をサーバーで処理して、もう一度パソコンに送るというプロセスがあるとします。手元のパソコンが壊れた場合、サーバーから送られてきた情報を見ることはできないし、サーバーに情報を送ることもできません。しかし、これは単にサーバーと情報のやり取りができなくなっただけです。情報の処理が手元のパソコンとサーバー、どちらでどの程度行われているのかは、パソコンが壊れて情報が見れなくなったというだけでは何もわかりません。
結局、何が重要なのかというと、脳が損傷して精神に異変が起こるというだけでは、意識がどこにあるのか、意識という処理がどこでどの程度行われているのか、ということについてはさっぱりわからないということです。実際の脳は絶えず外界と何らかの情報をやり取りしているわけですから、意識がどこでどの程度発生しているかはそこまではっきりしないと思います。頭皮を隔ててその内側に意識があるというのは、単なる方便だと思います。
3.意識には主客(自他)の区別がない
意識はありますが、これはただ意識があるというだけです。「自分」の意識というものは後から出てきた解釈にすぎません。「自分」という言葉は単なるラベルです。このラベルの張り付け方には、大きく分けて次の3つがあると思います。
[1] 「記憶」を「自分」と同一視する解釈
記憶の連続性に「自分」というラベルを貼るやり方です。例えば、記憶喪失の人が自分について思い悩むように、記憶と自分を結びつけることはよく起こることと思います。
[2] 「他人」の意識との対比としての「自分」の意識
後述するように、「他人」の意識というのはその存在が不明瞭です。ですが、「他人」に意識があると仮定することはできます。そういった仮定のもと、不明瞭な「他人」の意識との対比として、明瞭な意識に「自分」というラベルを貼るやり方です。
[3] 「自分」を説明するための「意識」
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったように、「意識があるからその意識の主宰者たる自分がある」という考えがあります。ですが、この考えは「自分」という言葉に説明をつけるために「意識に主宰者がある」という仮定を使ったというだけで、「自分」の意識というものが直接見つけられたわけではありません。
一方、「他人」の意識というものも、その存在は不明瞭です。これについては、「哲学的ゾンビ」という有名な話があるのでそこまで難しくはありません。向こう側に見える他人に意識があるのかどうかは、まったくわからない話です。最近では、高度な生成AIが人間と同じように文章を書いたり、音楽を作ったりするようになってきましたが、生成AIが意識を持つと思うでしょうか?結局、「客体」に属するものが意識を持つというのは、単なる作業仮説の域を出ない話です。そのため、「他人」が「自分」と同じような思考や感情を持つという前提に立ってあれこれ思い悩むのはやめたほうがいいでしょう。
4.「意識がある」ことは客観的に示せない
例えば、今後脳科学が進み、人間の意識を何らかの形でデータ化できるようになったとします。これは、最近ではある程度やられているようですが、脳波データからその人が考えている画像を推測するといった活動が、もっと精度良く幅広い精神活動に適用できるという状況を想定します。こういった活動は、意識と対応するデータというものを作り出すことができますが、やはりこれだけでは「意識がある」ことを示せたとは言えません。なぜなら、データそのものは、単なる記号の羅列であるからです。この記号の羅列から生み出される画像や音声などを意識して始めて、このデータが意識と対応しているようだということを知るというだけです。要は、データが意識と対応しているという実感も、結局意識無しでは得られないのです。これは、読まれない小説が単に紙にインクが染みこんだものであるのと同じことです。意識なしに意識を知ることはできず、それゆえに意識があることを客観的に示すことはできないのです。
5.「内面描写」の存在は「内面」の存在を保証しない
小説や漫画、アニメといったフィクションには「内面描写」というものがあります。これは、一見するとキャラクターの内面、すなわち外からは認識できないキャラクターの意識を記述したものであるように見えますが、そうではありません。なぜなら、キャラクターは架空の存在であり、内面を持つということはあり得ないからです。これに対して、それなら「内面描写」は作家の内面を描写したものだという意見が考えられますが、これについても3で考察したように他人の意識はその存在が不明瞭であるから、作業仮説の域を出ません。
また、フィクションに限らず、自分自身の内面描写というのも自分の内面の存在を保証しません。これも3で考察したように、「自分」の意識というものは単なる後付けの解釈に過ぎないので、「自分」の内面というもの自体が単なる後付けの解釈であるからです。内面描写というのは、実際のところそれを記述しているとされる者の行動に背景となる理由をつけただけで、単なる作業仮説です。
歴史に学ぶとすれば、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは物体が地表に向かって落ちるのは、その物体が本来あるべき場所に帰ろうとするからだと説明していました。これはまさに、物体の「内面描写」であり、物体の行動(運動)に背景となる理由を付けたのだと言えます。
もっと言えば、今日の物理学にしても、よくよく考えてみれば自然現象を説明するための作業仮説にすぎず、ある種の「内面描写」と言えます。自然が物理学の理論体系に従って動いているのかどうかはよくわかりません。よくわからないからこそ、新しい学説が次々と出てくるのだとも言えます。ただ、主に微分方程式で記述された物理学の体系は、自然の運動を非常に高い精度で再現性良く記述するために、そういった法則があたかも本当にあるかのように見えるというだけです。こういった考えは、D. ヒュームの「知覚の束」に見られるものです。
そこで、「内面描写」は内面描写そのものとして取り扱えばいいという考えが浮かびます。見えない「内面」を考えるのではなく、見知っている「内面描写」と「行動」の間の関係性を考える、という活動であれば一応の成果を挙げられるかもしれません。とはいえ、物理学のように比較的単純ないわゆる物質的現象であればともかく、生命現象、殊にホモ・サピエンスのような複雑な生命の行動(運動)を言葉による「内面描写」で説明し予測できるかどうかは疑問です。消費者の購買行動のマーケティングのように、限られた行動を大ざっばに予測することはできるかもしれませんが、目の前にいるホモ・サピエンスが次に何を言うか、といったような局所的で精度の高い予測を再現性よく行うのはほとんど不可能だと思います。
重複組合せと組合せの関係式
問題です。解答は下部に載せました。
問題: および
を
以上の任意の整数とする。このとき、
となることを示せ。
解答:題意の式の左辺は重複組合せのよく知られた公式である。ところで、 種類のものから重複を許して
個選ぶ場合、選ばれるものの種類の数を
とすれば、明らかに
である。そして、
種類のものから
種類を選ぶときの選び方の総数は
通りであり、それぞれの選び方について重複組合せの総数を考えると、
種類のものが少なくとも一つずつ選ばれていることに気を付ければ、それは
通りある。よって、 種類のものからまず
種類のものを選び、選ばれた
種類のものから重複を許して
個選ぶ場合の数は
となり、これをすべての について考えて足し合わせたものが
種類のものから重複を許して
個選ぶ場合の数となるから、題意の式が成り立つ。
1に収束する無限級数の構成
問題です。解答は下部に載せました。
問題: を非負整数、
とする。このとき、
とおけば、
となることを示せ。
解答: を
より大きい正の整数として、
とおく。このとき、
である。なぜなら、
となるからである。
であるから、
より、
である。よって、
を計算する際に、各項の値はすべて によって与えても構わない。
は、
を任意に大きく取っても成り立つので、
(証明終)
具体例:例えば、 とおけば、これは
を満たしているので、
が成り立ちます。この場合、
同じ種類の文字が続く部分の個数と確率
問題です。解答は下部に載せました。
問題: 種の文字からランダムに
個の文字を選び1列に並べる。このとき、同じ種類の文字が続く部分(1文字でもよい)が
個ある並べ方の数
とその確率
を求めよ。また、
が最大となる
を求めよ。
解答:同じ種類の文字が続く部分の仕切り方は 通りある。
次に、仕切られた部分への文字の当てはめ方を考える。 個の仕切られた部分から任意にひとつをとり、その部分に
通りの文字を当てはめるとすれば、その両隣りの部分は重複がないようにすると
通りの文字の当てはめ方が考えられる。同様にして、始めに指定した仕切られた部分以外は
通りの文字の当てはめ方があるとわかるので、結局、仕切られた部分への文字の当てはめ方は
通りある。よって、
となる。また、 種の文字からランダムに
個の文字を選び1列に並べるときの並べ方の総数は
通りなので、
となる。
続いて、 が最大となる
を求める。これは、次の不等式を満たす最大の
に等しい。
上の不等式を変形すると、
となり、求める はこの不等式を満たす最大の
である。
補足:明らかに、
が成り立つ。よって、 は、
を満たす。
下のグラフは、 、
のときの、
を縦軸に取り、横軸に
を取ったものです。

x=((sinθ)^n)cosθ, y=(sinθ)^(n+1) が描く曲線で囲まれた領域の面積
問題です。解答は下部に載せました。
問題: とする。
このとき、 を求めよ。
解答
のように変更すると、
(ウォリス積分)

上図は、 の場合に、
の範囲でグラフを描いたものです。関数
は
が奇数のときは周期
、
が偶数のときは周期
となっています。




