頭の整理

頭の中を整えるために,色々と書き綴ります

意識についての考察

意識について思うことをまとめました。

 

1.意識はある

 意識はあります。意識が無いとは思えません。

 

2.意識はどこにあるのかわからない

 意識はどこにあるのかわかりません。脳科学や西洋式の心理学等では意識が脳にあると説明していると思いますが、それは脳が損傷を受けたときに精神に異変をきたすことを根拠にして意識が脳にあると言っているのだと思います。ですが、それだけでは意識が脳にあるとは言えないと思います。

 例え話として、パソコンとサーバーの関係を考えてみます。手元のパソコンからある情報をサーバーに送り、送られてきた情報をサーバーで処理して、もう一度パソコンに送るというプロセスがあるとします。手元のパソコンが壊れた場合、サーバーから送られてきた情報を見ることはできないし、サーバーに情報を送ることもできません。しかし、これは単にサーバーと情報のやり取りができなくなっただけです。情報の処理が手元のパソコンとサーバー、どちらでどの程度行われているのかは、パソコンが壊れて情報が見れなくなったというだけでは何もわかりません。

 結局、何が重要なのかというと、脳が損傷して精神に異変が起こるというだけでは、意識がどこにあるのか、意識という処理がどこでどの程度行われているのか、ということについてはさっぱりわからないということです。実際の脳は絶えず外界と何らかの情報をやり取りしているわけですから、意識がどこでどの程度発生しているかはそこまではっきりしないと思います。頭皮を隔ててその内側に意識があるというのは、単なる方便だと思います。

 

3.意識には主客(自他)の区別がない

 意識はありますが、これはただ意識があるというだけです。「自分」の意識というものは後から出てきた解釈にすぎません。「自分」という言葉は単なるラベルです。このラベルの張り付け方には、大きく分けて次の3つがあると思います。

[1] 「記憶」を「自分」と同一視する解釈

 記憶の連続性に「自分」というラベルを貼るやり方です。例えば、記憶喪失の人が自分について思い悩むように、記憶と自分を結びつけることはよく起こることと思います。

[2] 「他人」の意識との対比としての「自分」の意識

 後述するように、「他人」の意識というのはその存在が不明瞭です。ですが、「他人」に意識があると仮定することはできます。そういった仮定のもと、不明瞭な「他人」の意識との対比として、明瞭な意識に「自分」というラベルを貼るやり方です。

[3] 「自分」を説明するための「意識」

 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったように、「意識があるからその意識の主宰者たる自分がある」という考えがあります。ですが、この考えは「自分」という言葉に説明をつけるために「意識に主宰者がある」という仮定を使ったというだけで、「自分」の意識というものが直接見つけられたわけではありません。

 一方、「他人」の意識というものも、その存在は不明瞭です。これについては、「哲学的ゾンビ」という有名な話があるのでそこまで難しくはありません。向こう側に見える他人に意識があるのかどうかは、まったくわからない話です。最近では、高度な生成AIが人間と同じように文章を書いたり、音楽を作ったりするようになってきましたが、生成AIが意識を持つと思うでしょうか?結局、「客体」に属するものが意識を持つというのは、単なる作業仮説の域を出ない話です。そのため、「他人」が「自分」と同じような思考や感情を持つという前提に立ってあれこれ思い悩むのはやめたほうがいいでしょう。

 

4.「意識がある」ことは客観的に示せない

 例えば、今後脳科学が進み、人間の意識を何らかの形でデータ化できるようになったとします。これは、最近ではある程度やられているようですが、脳波データからその人が考えている画像を推測するといった活動が、もっと精度良く幅広い精神活動に適用できるという状況を想定します。こういった活動は、意識と対応するデータというものを作り出すことができますが、やはりこれだけでは「意識がある」ことを示せたとは言えません。なぜなら、データそのものは、単なる記号の羅列であるからです。この記号の羅列から生み出される画像や音声などを意識して始めて、このデータが意識と対応しているようだということを知るというだけです。要は、データが意識と対応しているという実感も、結局意識無しでは得られないのです。これは、読まれない小説が単に紙にインクが染みこんだものであるのと同じことです。意識なしに意識を知ることはできず、それゆえに意識があることを客観的に示すことはできないのです。

 

5.「内面描写」の存在は「内面」の存在を保証しない

 小説や漫画、アニメといったフィクションには「内面描写」というものがあります。これは、一見するとキャラクターの内面、すなわち外からは認識できないキャラクターの意識を記述したものであるように見えますが、そうではありません。なぜなら、キャラクターは架空の存在であり、内面を持つということはあり得ないからです。これに対して、それなら「内面描写」は作家の内面を描写したものだという意見が考えられますが、これについても3で考察したように他人の意識はその存在が不明瞭であるから、作業仮説の域を出ません。

 また、フィクションに限らず、自分自身の内面描写というのも自分の内面の存在を保証しません。これも3で考察したように、「自分」の意識というものは単なる後付けの解釈に過ぎないので、「自分」の内面というもの自体が単なる後付けの解釈であるからです。内面描写というのは、実際のところそれを記述しているとされる者の行動に背景となる理由をつけただけで、単なる作業仮説です。

 歴史に学ぶとすれば、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは物体が地表に向かって落ちるのは、その物体が本来あるべき場所に帰ろうとするからだと説明していました。これはまさに、物体の「内面描写」であり、物体の行動(運動)に背景となる理由を付けたのだと言えます。

 もっと言えば、今日の物理学にしても、よくよく考えてみれば自然現象を説明するための作業仮説にすぎず、ある種の「内面描写」と言えます。自然が物理学の理論体系に従って動いているのかどうかはよくわかりません。よくわからないからこそ、新しい学説が次々と出てくるのだとも言えます。ただ、主に微分方程式で記述された物理学の体系は、自然の運動を非常に高い精度で再現性良く記述するために、そういった法則があたかも本当にあるかのように見えるというだけです。こういった考えは、D. ヒュームの「知覚の束」に見られるものです。

 そこで、「内面描写」は内面描写そのものとして取り扱えばいいという考えが浮かびます。見えない「内面」を考えるのではなく、見知っている「内面描写」と「行動」の間の関係性を考える、という活動であれば一応の成果を挙げられるかもしれません。とはいえ、物理学のように比較的単純ないわゆる物質的現象であればともかく、生命現象、殊にホモ・サピエンスのような複雑な生命の行動(運動)を言葉による「内面描写」で説明し予測できるかどうかは疑問です。消費者の購買行動のマーケティングのように、限られた行動を大ざっばに予測することはできるかもしれませんが、目の前にいるホモ・サピエンスが次に何を言うか、といったような局所的で精度の高い予測を再現性よく行うのはほとんど不可能だと思います。

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