”このくにの善行は「少しも打算、分別の入らない行為」のことであって、無償かどうかをも分別しないのである。”
この記事では,なぜ「少しも打算,分別の入らない行為」が「善行」と言えるのかについて「執着」をキーワードに解釈していきます.
まず,「執着」について説明します.手元の辞書を引くと,次のように書いてあります.
しゅう-ちゃく【執着】
〔名〕《「しゅうじゃく」とも》一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。
―デジタル大辞泉 より引用
よって,執着とは心がある領域にとらわれて,自由な動きが制限された状態であるといえます.仏教では執着を捨てることで,苦を滅することができると説いています.
次に,打算および分別について考えてみます.打算と分別は損得や道徳規範といった評価基準の範囲で行われます.そのため,打算や分別が行われるとき,心はある評価基準の範囲という領域にとらわれています.よって,打算や分別が行われるとき,それを行っている人は執着しているといえます.これから,次のことが言えます.
「人が打算や分別の入る行為をするとき,その人は執着しており,苦を滅することができていない」...(1)
(1)があるために「少しも打算,分別の入らない行為」が「善行」と言えるのだと思います.ただし,次のことは必ずしも明らかではありません.
「人が少しも打算,分別の入らない行為をするとき,その人は執着しておらず,苦を滅することができている」...(2)
(2)が明らかでないのは,例えば「よそ事を考えながら,少しも打算,分別の入らない行為をした」ということがあるからです.この場合は,その人は「よそ事」に執着しているため,苦を滅することはできていません.打算や分別の裏に執着があることは明らかですが,打算や分別がないことは必ずしも執着がないことを意味しません.